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町がもっと楽しくなる、あんなお話、こんなお話。

 飯盛町のお話 森山町のお話 高来町のお話 小長井町のお話

飯盛町(いいもりちょう)の名称由来

 
2村合併で誕生した飯盛町。
旧江ノ浦村と旧田結村の丁度境界付近に、海抜292メートルの山がある。
この山は、ご飯をあたかも山盛りに盛ったような形をしている。
別名「飯盛山(めしもりやま)」と呼ばれることもあり、町の象徴の1つである。
「飯盛山(めしもりやま)」の「飯盛(めしもり)」が転じて「飯盛(いいもり)」となり、本町の名称由来となった。
 

飯盛町のお話 其の一

びょうびやの たぬき

びょうびや(びょうぶ岩)に伝わる 可愛い化け狸のおはなし

 ある月夜ん晩 おじさんは、江ノ浦まで長崎から歩いて帰りおったげなばい。
 田結までやっと来たとき、背中んいりこは重たかし、はよもどるごともあったけん、川下かい山ごえしゅうと思うたげな。
 山ん入り口まで来たとき、びわん木ん下にきれいか女ごん立っちょって、おじいさんば 身ちかいにっこりしたげなもん。
 おじさんは“だいな”とおもうち、よう見たらぜんぜん知らん女ごじゃったげな。
 おじさんは、“もしかかしたらびょうびやんたぬきばいね”ち思うて、「あんた、どこもんなとたずねたげな。
 そしたらそん女ごは、「びょうびやんもん」と、こまあか声でこたえたげな。
 たぬきと道づれも おもしろかと思うたおじさんは、「そうな、おいばここで、待っちょてくれたっちゃろ。」
「おいも一人で山ばこすとはさびしかけん、すまんが家までついてきてくれんか。」と頼んだげな。
 そしたら 女にばけちょった たぬきは、正体ばあらわし、うれしそうに、おじさんの前になったり、後ろになったらりして歩きだしたげな。
おかげで、おじさんも さびしゅうなかったげなもん。
 おじいさんは、家に帰り着くなり、
「おいが さびしゅうなかごと、ずっとつきおうてくれた山んもんのおっけん、お礼に いりこば やっちくれ」と家の人に たのんだげな。家の人は皿にいりこば山もりして 庭にだしたげな。
しばらくして、おじさんが庭にでて見ると、いりこは、きれいにのうなっとたげなばい。おじさんは、「よかった、よかった。かわいかたぬきばい」というて、山ん方に 手ばふったげな。
 次ん日の朝、おじさんが いりこの袋ば見たら、ふしぎなことに、そんふくろがどげんもなっちょらんやったげな。

飯盛町のお話 其のニ

香田のいたずらぎつね

 むかしむかし、香田のうらん山に、きつねのいっぺえすんじょった。そいどんの中には、ばえんわるさばすっとのおって、いらんこつばっかいしては、村んもんば困らせておったげな。
 ある日んこつ、多助じいちゃんな、親せきん結婚式に呼ばれちかい、夜道ばひとりでふうらり、ふうらり、わが家さん帰っていきおらしたげな。
 はな歌どん歌いながら、香田ん坂まできたときばい。急に背中ん重とうならしたげな。じいちゃんな、「あん、いたずらぎつねばいね」と、すうぐにわからしたげな。
そいでん、後ろばふりむいたり、きつねとしゃべったりせんじゃったら、ばかされんて知っちょたけん、いっちょんびっくりせんやった。
 しばらくしちかい、背中んきつねが、「トントン。」と、じいちゃんのかたばたたいたげなもん。
結婚式のみやげば持っちょっとばしっちょってかい、食いもんばやれち、いいおっとたい。
じいちゃんなだまって大根のにしめばきつねにやらしたげな。
しばらくしち、また「トントン。」と、きつねがたたいたげなもん。こんどはごんぼばやらしたげな。
「トントン。」魚をやらしたげな。
「トントン。」赤飯ばやらしたげな。
「トントン。」・・・・・・
だんだんみやげんのうなっていくので、じいちゃんな腹ん立っしょんなかったげな。
「トントン。」みやげがとうとうあぶらあげだけになってしもうたげな。
あぶらあげは、じいちゃんの大好物で、こいだけはぜったいやっごとなかったげなもん。そいでん、きつねもあぶらあげば好いちょってから、はじめかい、こいばねろうちょっとたげな。
「トントン。」
「トントン。」
じいちゃんが、聞こえんふりしてとぼけちょっとで、きつねは、何回でん、じいちゃんのかたばたたいたげな。
きつねん、あんまいしつこかもんけん、じいちゃんな、もう、どげんもこらええんごとならして、
 「こら!いいかげんにしろ。」と、おめいてしもうたげな。
きつねにしゃべったらようなかとに、おめいてしまった。
じいちゃんな、なんもわからんごつなり、とうとうきつねにだまされてしもうたげなばい。
 山ん中でじいちゃんがみつかったときは、そいから三日してからんこつばい。
そん時じいちゃんな、松葉やまつぼっくりば、「うまか、うまか。」ちいうてパクパク食いおらしたげな。
そしてかい、助けにきた村んもんば見ちかい、「コーン。」と、きつねんごと鳴かしたとげな。

森山町のお話 其の一

幻の唐比れんこんとそのルーツ

歯ごたえの良さと柔らかさを併せ持ち食感が実に絶妙!

 唐比れんこんは、大昔印度から唐へ伝わり、唐からこの地へともたらされたという。
水晶観音さん(補陀林寺)にあるマンダラ(仏の国を説明する絵)は、この池(蓮池)に生えるれんこんの蓮糸で織ったという伝説があるほど、昔は、池一面に蓮が生い茂るっていたという。

 当時島原の殿さまが、この地の、いわゆる大名道を通って夏の日、長崎警固従来の際は、必ず休屋(唐比番所)で休憩、池一面に咲く蓮花を賞でたということであるが、今の上海蓮根と違い、昔からの地蓮根の花色は濃紅色で実に美しいものであった。
今は、もう、この地蓮根(いわゆる唐比れんこん)を作っているのはまれであるという。これぞ幻の所以である。
 地れんこんの味はシャキシャキしていておいしい。今は、ほとんど上海蓮が作られ、戦後佐賀から移入されたものという。
これは、味がポヤポヤしていて軟らかく泥の浅いでも育つが、地れんこんは深い所を好むようで作りにくいと伝われている。
地蓮根には、蓮糸が多く、それも長くつながるので食べるのには、めんどうくさいところもある。

 本来、私達が蓮根と呼んでいる部分は、根ではなく地下茎である。この地下茎には、いくつもの穴があり、それは葉柄、花柄へと通じ、その穴の内側に蓮糸が密にラセン状に巻いており、葉柄のいくつかの導管の内側に巻きあがっている。
ちょうど、紙提灯の内側を竹ヘゴで巻き、強さと伸縮を容易にしているのと同じ理由からであろう。
これによって、根茎が水圧、泥圧でつぶれないようにしているものと思われる。
 花柄、葉柄も水圧、風圧に耐え易くする為のものであろう・・・。
なお、地下茎(れんこん)の穴は、葉柄、花柄の穴と通じており呼吸をしている。
地蓮根が泥の深い所でも息づけるのは、この蓮糸が多く、密で強いことと関係があるようである。

 昔れんこん堀りには、腰上まで泥にめりこんだものであったが、上海蓮を作るようになってからは、せいぜい、膝上、中股ぐらいまででよい。
このことも上海蓮が重宝がられる理由である。
村田家先代も蓮根掘りの名人であったので、深く掘り耕してこられた。それで、何とか地蓮根が伝承されたてきたのであろう。

森山町のお話 其の二

江戸末期の郷土の偉人、土橋貞恵翁(土橋多助)とその祭典

生涯を通じて貧しい患者に薬や米を与えたり、私財をなげうって地域の橋梁や道の改修に努めた医師。毎年5月9日には開業した森山町杉谷 森山東小学校で遺徳を偲んで「土橋貞恵翁祭」が開催されている。

   以下森山町郷土史より

 郷土の先覚者の中で、特に世の中の人から慈善事業家として尊敬され、かつ、親しまれてきた人は土橋貞恵であろう。
地元森山諫早方面では「多助ボッサン」の愛称で今に語り継がれている。
 多助は安永五年八月長田に生まれ慶応元年(1865年)5月9日杉谷で没した。(高齢90歳) 彼の一生は聖人という名を地でいったような徳行の人生であった。

 初め多良の金泉寺で読み書きを学び、後に佐賀の諫早屋敷に移り住み下僕となった。何事にもまじめに立ち働いたため信用も厚かった。
余暇を見つけては、よく書を読んだ。二年の後長崎の医者松道碩の門に入り、医術を学んだ。彼の陰陽なき働きぶりには師道碩も満足し積極的に医術修得に協力した。

 このようにして一六年間努力精進の甲斐あってやっと三二歳の時、医者としての免許を与えられ、文化二年(一八○五)森山杉谷の地に開業したのであった。
多助は土橋永春の看板を掲げ、医は仁術の言葉通り誠実な態度で患者に接した。自己の生活は常に質素を旨とし美衣美食を望むは人の道にあらずと、家人をよく戒め、これを実行した。しかし、貧しい患者には薬と施米の両方を携えて行くなど、徹底した親切さを示した。
医術の優秀さと、いかなる人にも、差別しない丁重な態度は、広く世の人々の信頼を得るところとなり、寸暇も見出せないほど多忙を極めた。

 そこで、資産は日に増し月に殖え、開業以来2~30年後には、この地方屈指の富豪となったが、彼はおごる気持ちなどさらさらなく家庭生活も質素を極めた。そしてこれらの財は、社会奉仕にすべて還元された。
即ち幾多の土橋を石橋に架けかえ、道路の改修、溜池の築造等土木事業に喜捨したり、藩校好古館の育英事業に十数町歩の学校田の寄付等、その篤行は枚挙にいとまがない。

 晩年の彼は、剃髪し「知足庵」と称して仏門に入り、追福のため多くの寺院に多くの寺院に田地の寄付も行っている。
万延元年(1860年)時の諫早領主は彼の数々の善行に報いるため士族に列し、貞恵の称号を授け、また表義碑を正林に建て顕彰した。
嘉永三年二月に御家中子弟取り立ての資とし好古館育英事業に田地十町六段五畝を永代献上した。
この学校田は諫早町に引き継がれ、町内三校(諫早、北諫早、上諫早)の全職員児童二回の彼岸の中日には土橋家御遺族を招待し表義碑の前で盛大な式典が挙行され式後多助マンジュウが配られた。

 諫早市の市制施行や終戦後の農地改革等により学田その他の献田も変革を受けた。
市役所の建設に伴い表義碑は諫早小学校校庭に移され世人にはあまり参観の機縁に恵まれず残念に思っていたが、再度市役所の好古館跡に移され道行く多数の方々の目にとまり、わが諫早人の徳化のために永久の教えを垂れられることになった。
地元森山の土橋貞恵翁祭は5月9日の命日に町内三校の児童・生徒の代表と職員が集まり、ご遺族をお招きし町内有志の方々にご案内を申しあげ、毎年執行されているが、この祭典の発足が大正か昭和の初期か定かではない。

昭和の初期頃は、貞恵翁祭費として学校教育予算に計上して多助マンジュウあるいは卵を入れてないマルボーロに似た麦菓子代や祭典用の予算を村より出してもらった。またある時代には食糧費の中より三枚配分捻出して祭典を行った時代もあり、教育委員会が発足後は社会教育の中で貞恵翁祭の位置づけが確立した。
祭典の内容は、諫早も森山も大同小異で土橋貞恵翁頌徳歌も原勇六作詩、島村吉門作曲の同一の歌であり、祭文の文章も同じようなものが読まれている。森山東小では、校歌が昭和四六年まで制定されず、修学旅行などで、所望されると、「わが身を捨てて世を救う・・・」と、この頌徳歌を唄ったものであった。

 昭和41年、貞恵翁百年祭を記念しその遺徳を永く後世に顕彰する為に、東小学校校庭に頌徳碑を建立し、盛大なる百年祭を一一月九日挙行した。
翌42年8月9日教育長中山憲雄氏死亡に伴い土橋貞恵翁記念出版物発刊の運びも延引したが、1月9日やっと完成配本することができた。

 彼は、老境に近づくにつれ、墓地の準備にかかった。自分でも暇を見出しては地開きをしたり墓碑を刻んだりしたという。
彼の設計になる墓域は山の斜面にあり、全体を三段に分かち、最上段を土橋家の家族の分とし、中段を先祖高柳家の祖と師匠の墓の部にあて、最上段には三つの尊像を祭った。
中央は阿彌陀如来像、その左が五穀成就万民快楽のための像、右の方は薬師如来の像となっている。各段の中央には大きい水がめがいけ込まれて鳥獣が水に溺れるおそれありとして、かめの底に小石などを入れて浅くするなど土橋貞恵の慈悲慈愛の精神は鳥獣にまで広く及んでいる。

 

高来町のお話

伝説の美青年「岳の新太郎さん」と民謡「ざんざ節」
 
 多良岳は、佐賀県太良町と高来町の境にあるが、昔は両町ともおなじ諫早領で山上一帯の大山は領主の所領になっていた。
その太良獄三社大権現は金泉寺が主祭して春秋の大祭をとり行い盛大なものであった。
太良嶽大権現は、和銅年間(708年~)に行基菩薩が、釈迦・弥陀・観音の三尊をまつり、創建されたと伝えられ、平安時代の初め、弘法大師が山上にとどまり、不動明王を刻んで本尊とされ、金泉寺をお建てになったといわれている。
雲仙の満明寺とともに鎮西の名刹として僧坊30余、山麗の社寺はみなその支配下にあったという。その参道の表玄関が、湯江黒新田で猪塔の所に一の鳥居があり、金泉寺の別院が神津倉の医王寺である。
唄の主人公「岳の新太郎さん」は、文化・文政(1804~1829)頃の人で、原口新太郎といい、神津倉の生まれであるという。
 太良嶽の金泉寺は、弘法大師が建てた真言宗の寺で、高野山のように女人禁制の修錬場であった。寺は男ばかりで、長老たちの身の回りの世話は美しい男の子、即ち、稚児がしていた。
新太郎はこの稚児あがりの寺侍で、大きくなるにつれ天性の美貌はいよいよ輝くばかりの美青年となった。時おり、神津倉の別院医王寺に下ってくると、類まれな彼の美貌を見ようと多くの女たちが待ちかまえていた。しかし、寺の戒律が厳しいので、新太郎は女たちには目もくれなかったという。
それがますます女性たちのあこがれの的となり、その沿道には女たちが群集したといわれ、これをうたったのが、「岳の新太郎さん」である。

 一、岳の新太郎さんの下らす道にゃ、ザーンザザンザ
   金の千灯籠ないとんあかれかし
   色者の枠者で気はザンザ
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ


新太郎が山を下ることがわかると、山麗の娘たちは、その道筋に灯籠をあかあかと照らして、その道筋に灯籠をあかあかと照らして、その顔を仰ぎ喜んで迎えたという。

 二、岳の新太郎さんの登らす道にゃ、ザーンザザンザ
   道にゃ水かけなめらかせ
   色者の枠者で気はザンザ
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ


 美男新太郎が下山して医王寺にくると、少しでもながくとどめようと、寺の西側の権現坂(新太郎さん坂)に水をかけて滑らせ、登られぬようにした女たちの新太郎への思慕の情をうたったものである。
しかし、熱烈な女性たちの戦術にも、新太郎は迷わなかったといわれる。

 三、岳の新太郎さんな高木の熟柿、ザーンザザンザ
   竿じゃ届かぬ登りゃえぬ
   色者の枠者で気はザンザ
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ


 新太郎は、いつもきれいで若さに輝いており、山麗の全女性のあこがれの的であったが、彼女たちが近づけぬ身分であった。

 四、岳の新太郎さんな山芋の古根、ザーンザザンザ
   今年や去年より若ござる
   色者の枠者で気はザンザ
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ


 多良岳名産の自然藷、即ち、やまいもは毎年冬に枯れ、次の年にはまた新しく若々しいいもが できるものであるが、万年青年の新太郎もますます若がえって見えたという。

 五、笠を忘れて山茶花の茶屋に、ザーンザザンザ
   空がくもれば思い出す
   色者の枠者で気はザンザ
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ


 江戸時代の長崎はただ一つの貿易港で、これに通ずる陸路として長崎街道(多良岳の北の嬉野 回り)があり、そのわき道(近道)として多良岳の南麓を通る諫早街道があった。
これは展望がすぐれていたが多良越の難所があった。その一番高い所にある山茶花峠は、標高350メートルで、佐賀・長崎両県の境の小長井にあって、付近は人家一つなく一町歩余の盆地の北側にきれいな清水がこんこんと湧き出る所に、一軒の茶屋があるだけであった。
ここは、旅人の休憩所としては最適の場所で、茶屋の隣には、佐賀の殿様が長崎警固のため往復するときのカゴ立場があった。茶屋のそばに紅色の花をつける山茶花の老木があって、旅人の目を楽しませ、茶屋のとろろ汁は名物だとされていた。

 なお、この「岳の新太郎さん」の出生地について、諫早・高来・佐賀太良の三カ所の説があるが、金泉寺とその別院のある高来町湯江が最も有力であると言われている。
 

小長井町の位置

 
諫早市小長井町は、長崎県と佐賀県が接する有明海に面した所にあり、長崎県の東の玄関口で長里、牧、農場(地名)、清水、広川原、田原、小川原浦、井崎、築切、遠竹の集落からなっている。
有明海を挟み、前には雲仙岳、後ろには多良岳を仰ぎ見る坂の多い風光明媚な町である。

※「小長井」という地名は、「小川原浦」「長里」「井崎」の頭文字を取って名付けられた。

この地域の歴史は古く、約1万年前である縄文時代の石器が遺跡より発掘されている。また、古墳時代の遺跡である長門鬼塚古墳があり、そこにはクジラの線刻画が刻まれている。
 

小長井町のお話 其の一 おがたまの木

国の天然記念物に指定!!日本一の「おがたまの木」
 
 川内部落の北方に楓木下という地名がある。昔から、ここにフウの木の巨樹があったという。フウの木とは方言で、木名をおがたまのきという。木蘭科のオガタマ属で、常緑の喬木で暖地に自生し、わが国では本州の中南部から四国・九州・沖縄にかけて分布している。この川内のおがたまのは、千年以上たった大巨木で、国より天然記念物の指定をうけ、町の木としてシンボルとなっている。

 幹の直径は、長い方が、三・六四米、短い方が、一・八二米で、幹のまわりが九・一米である。地方五メートル位のところから、数回切りとったらしく、今は十五本にわかれている。面白いのは、その切株の口から、エノキ、ムクノ木、クヌドイゲ、コマユミなどの寄生樹が雑居していることである。

 松、杉、銀杏、ソテツ、などの巨木が全国に天然記念物として指定されているが、このおがたまのきは、全国屈指といわれている。
 早くから指定を受けている福岡県の、おがたまのきはその大きさが、この木の半分にも足りない。
 
 

小長井町のお話 其の二 帆崎石

大阪城にも使用されている、良質な帆崎石。
 
 牧部落の小深井港は、昔から帆崎石の積出港として知られていた。陸上の交通運輸が皆無といってよい時代なので、まず石材業は露出する石山からはじまった。

 豊臣秀吉が大阪から大阪城を築く時、ここの大石を、ゴロにのせ、海岸に運び、あきだるを沢山大石に結びつけ、満潮に浮力を利用して、船で引っ張って、海上を大阪まで運んだといい、その時の根石の矢あとが今も残っているという。

 諫早の御舘山の稲荷神社の、コウエモンキツンネは神通力があるというので有名であった。永昌の、杢どん、と云う代官が、死んだら私の体をやるから金持ちにしてくれと願をかけた。
ところが、コウエモンキツンネの力で、することなすこと成功して、杢どんは数年後には、大金持ちになった。金持ちになってみると我がままになるものだ。
さて、出来上がって石棺を船につむまでは、晴天であったが、にわかに一天かきくもって大しけとなり、船もろとも石棺は沈んでしまった。
その石棺は海から引き上げて今は牧名の墓地の棺台になっている。

 帆崎石工業のはじまりは、大阪築城は名護屋築城の時など、帆崎から、巨石をおくったというから、昔より採くつされたと思われるが、本式の工業として、デビューしたのはその後のことである。
 

小長井町のお話 其の三 鬼の泣く浜

海岸にポツンとある、大きな石。その石にまつわる昔ばなし。
 
 井崎の長浜海岸は、一面の美しい砂浜でその間に大きな岩石がならんで昔は町内唯一の立派な海水浴場であった。
そんな海岸には大潮の満潮時にも海面に顔を見せる大きな石がある。
その海岸と大石についてのお話である。

 昔、多良嶽に一匹の悪い鬼がいた。神様の言うこともきかず、その目をぬすんでは里に下って作物をあらし、家畜をぬすんで農民を苦しめていた。
神様は自分のしもべの鬼が農民を苦しめることは許せないと考えた。
そこで神様は鬼に向かい「お前はいつも里の農民を苦しめている。もう今回は許すことはできないが、住みなれた山だから、運んで門をつくれ、そうしたら許さぬでもない。期限は明朝一番鶏の鳴く前まで」と命令した。

 鬼は、こりゃ大変だと大急ぎで十六キロメートルもある坂道を一気にかけおり、井崎の浜に来て大石をかついで山上の木戸口まで運んだ。
あと一石でできあがるので鬼は大喜びで特大の巨石をかついで息をせきながら登って来た。

 神さまも、今更ながら鬼の怪力に舌をまいておどろいた。
彼の気性では今後もじっとしてはいまい、可愛そうだが農民たちの幸福にはかえられない。
山から追放して後難を防ぐのが第一と考え、坂道のやぶにかくれて、陣八笠と、とおみを持って、バタバタと羽ばたきをしてコケッコウコウと一番のときをあげると、黒仁田部落あたりの鶏も一斉にこれに和して、ときをあげた。

 その結果、鬼は力つきて、路ばたに大石をなげすてると、井崎部落の長浜海岸に来て声をあげて泣いたという、これが泣く浜海岸のいわれである。

 海岸にポツンと残っている大石が、鬼が運びきれなかった石だと言われている。